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フィクションの警鐘、現実の足音~ ツバルで始まる「気候ビザ」の衝撃 ~

Discovery
2025年8月8日

1973年、日本が高度経済成長の余韻に浸り、列島改造論に沸き立つ一方で、狂乱物価とも言われたインフレやオイルショックが社会問題化していた時代。作家・小松左京は、一編の壮大な物語を世に送り出しました。

『日本沈没』

緻密な科学考証に基づき、日本列島が地殻変動によって海に沈みゆく様を描いたこの作品は、日本中に衝撃的な問いを投げかけました。「国とは何か、日本人とは何か」。永遠に続くと思われた繁栄の足元が、ある日突然崩れ去るという悪夢のような設定と、豊かさに慣れ、戦争で国土が焦土と化した記憶さえ薄れかけていた日本人に対し、「あなたたちのアイデンティティの拠り所は、本当にこの国土だけなのか」と、文明論的な視点が、当時の人々の心に深く突き刺さり、社会現象を巻き起こしました。

それは、浮かれた時代への痛烈な警鐘であり、自らの存在基盤を問い直すための「壮大な思考実験」でした。

それから半世紀以上の時が流れた今、その「壮大な思考実験」が現実のものになろうとしています。場所は南太平洋に浮かぶサンゴ礁の島国ツバル。原因は地殻変動ではなく、私たち人類が生み出した地球温暖化。小松左京が描いた悪夢が、「海面上昇による国家の海没」という形で人々の暮らしを根底から揺るがしているのです。フィクションが鳴らした警鐘は、今や私たちの耳元で、現実の足音として重く響いています。

フィクションの警鐘、現実の足音 〜 ツバルで始まる「気候ビザ」の衝撃 〜

沈みゆく「宝石箱」ツバルの叫び

ツバルは、ポリネシア文化が息づく9つのサンゴ礁の島々からなる国です。透き通った青い海、輝く白い砂浜。その美しさから「太平洋の宝石箱」とも称されるこの国ですが、地球上で最も脆弱な場所の一つでもあります。国土の平均海抜は約2メートル。最も高い地点ですら、わずか5メートルに届きません。この地理的条件が、地球温暖化による海面上昇という脅威の前で、あまりにも無防備な状況を生み出しているのです。国土の浸食が進み、海岸線は後退を続けています。

すでに井戸水は塩水と化し、深刻な塩害によってタロイモなどの農業も衰退し、食料の多くは輸入に頼らざるを得なくなってしまいました。

そして、何よりも深刻なのは、人々の心と文化の侵食と喪失です。先祖代々受け継がれてきた土地が海に奪われ、家族が眠る墓地が波に洗われる光景は、人々のアイデンティティを根底から揺さぶります。それは単に住む場所を失うだけでなく、自らのルーツや歴史、文化が消し去られていくことに等しいのです。

ツバル政府は、この絶望的な状況に手をこまねいているわけではありません。国連の気候変動会議(COP)では、歴代の首相がリモート参加し、膝まで海水に浸かりながら演説を行い、世界の指導者たちに行動を訴え続けてきました。さらに、国土がすべて失われた場合に備え、国の歴史や文化、行政機能をメタバース(仮想空間)上に保存し、デジタル国家として存続を目指すという、世界でも類を見ない壮絶な取り組みも開始しています。これは、国家消滅という最悪の事態を前にした、彼らの尊厳をかけた必死の抵抗なのです。

フィクションの警鐘、現実の足音 〜 ツバルで始まる「気候ビザ」の衝撃 〜

「ファレピリ連合」という名の希望と現実

この差し迫った危機に対し、2023年11月、隣国オーストラリアとの間で歴史的な合意が発表されました。それが「ファレピリ連合(Falepili Union)」です。

この協定は、近年太平洋地域で複雑さを増しつつある安全保障への対応から経済協力までを含む包括的なものですが、世界が最も注目したのは、その中に盛り込まれた、地球温暖化の影響で移住を余儀なくされるツバル国民のための特別な制度、通称「気候ビザ」でした。

この制度によって、年間最大280人が、抽選を経てオーストラリアへ移住し、永住権を得ることが可能になります。彼らはオーストラリア国内で自由に就労し、教育を受け、医療や社会保障といった国民と同等の権利を享受できます。地球温暖化を直接的な理由として、特定の国の人々の移民を受け入れる制度は、国際社会からは人道的な観点から画期的な一歩として称賛の声が上がりました。故郷を失うかもしれないという恐怖に苛まれる人々にとって、それは確かに一条の希望の光に見えたことでしょう。

しかし、その理想的な言葉の裏に隠された現実を直視した時、私たちは楽観的な見方を続けることができなくなります。2025年6月、最初のビザ申請が開始されると、わずか数日間でツバルの総人口(約1万1000人)の実に8割以上にあたる人々が応募したと伝えられました。年間わずか280人という狭き門に対し、国民の大多数が「脱出」のチケットを求めて殺到したのです。この事実は、この制度が包括的な「救済」には程遠く、むしろ沈みゆく船から限られた者だけが乗り込める、「ノアの箱舟」であることを浮き彫りにしました。

もちろん、どのような政治的背景があろうとも、移住の道が開かれたこと自体の意義を否定するべきではありません。しかし、これを手放しの美談として終わらせてはならないのです。これは、地球温暖化という巨大な不正義に対する、あまりにも小さく、対症療法的な処方に過ぎません。根本原因である温暖化を止めない限り、地球という「ノアの箱舟」そのものが、いずれ定員オーバーとなり、誰を乗せ、誰を見捨てるのかという、非情なトリアージを私たちに突きつけることになるでしょう。

フィクションの警鐘、現実の足音 〜 ツバルで始まる「気候ビザ」の衝撃 〜

地球の悲鳴と「気候正義」という名の問い

ツバルの悲劇は、単なる一国の不運ではありません。それは、地球が発する悲鳴の象徴であり、現代社会が抱える根源的な矛盾を白日の下に晒しています。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の報告書は、科学的なデータに基づき、人類の活動が温暖化を引き起こしていることは「疑う余地がない」と断言し、このままでは破局的な未来が訪れると繰り返し警告してきました。世界の平均気温の上昇を産業革命以前から1.5度以内に抑えるという国際目標の達成も、極めて困難な状況にあります。

ここで私たちが考えなければならないのが、「気候正義(Climate Justice)」という概念です。これは、地球温暖化の原因と影響の間に存在する、深刻な不平等を問う考え方です。温室効果ガスを大量に排出してきたのは、産業革命以降に経済発展を遂げた日本を含む先進国や、近年の新興国です。一方で、ツバルのような小島嶼国の排出量は極めて小さく、温暖化に対する責任はほとんどないと言っても過言ではありません。

地球温暖化の原因をほとんど作ってこなかった人々が、「国土の喪失」という最も破壊的な影響を真っ先に受ける。この構造的な不正義から、私たちは目をそらすべきではありません。

「自分たちの経済成長が最優先だ」「快適な生活を維持したい」― 先進国に住む私たちが無意識のうちに抱いているであろう、こうした利己的な考えが、遠い国の人々の生存権を脅かしている。この事実に、どれだけの人が気づき、自らの問題として受け止めているでしょうか。

地球温暖化問題は、単なる環境問題ではなく、「利己と利他」という倫理観の問題でもあります。私たちが享受する豊かさが、誰かの犠牲の上に成り立っているかもしれないという想像力を持つこと。それこそが、気候正義の実現に向けた第一歩となります。

フィクションの警鐘、現実の足音 〜 ツバルで始まる「気候ビザ」の衝撃 〜

『日本沈没』から50年、私たちは何者になったのか

再び、小松左京の『日本沈没』に立ち返ってみましょう。物語の後半、日本人が難民として世界に散らばっていく過程では、人間の醜いエゴイズムが赤裸々に描かれます。我先に海外へ脱出しようとする富裕層、受け入れ国での日本人に対する差別や偏見、そして、かつての日本を知る他国から投げかけられる「経済のことしか考えず、世界のことに無関心だった日本人が、今さら助けを求めるのか」という痛烈な批判。

この描写は、50年の時を経て、驚くほど現代の私たちに重なります。南太平洋の小さな国の危機を知りながらも、「対岸の火事」として見て見ぬふりをしていないか。自国の経済や利便性を優先するあまり、温暖化対策に真剣に取り組むことを先延ばしにしていないか。『日本沈没』が突きつけた問いは、今、ツバルという国家が温暖化によって沈没しつつあるという現実を通して、再び問いかけられているのです。

もはや、「自分さえ幸せならいい」という利己的な思考が通用する時代は終わりました。グローバル化時代に生きる私たちは皆、地球という船に乗り合わせた、運命共同体です。ツバルの沈没は、船底に空いた最初の穴に過ぎません。その穴を全員で必死に塞がなければ、浸水はいずれ船全体に及び、私たち自身の足元をも濡らすことになるでしょう。

私たちに求められているのは、「遠い国の惨禍への同情」ではありません。温暖化によって故国を追われる人々の暮らしを、文化を、そして故郷を失う痛みを、我がことのように感じようとする想像力であり、それを具体的な行動へと繋げることです。一人ひとりの行動だけが、未来を変える力を持っています。

小松左京が描いた日本人は、国を失って初めて、世界の現実と自分たちの姿を思い知らされました。私たちは、同じ過ちを繰り返してはなりません。沈みゆく隣人の声なき声に耳を傾け、利己主義を乗り越えた連帯を築くこと。それこそが、私たちの未来を拓く唯一の道なのです。

「ツバルはとても優しい社会だ。たとえ豊かでなくても、分け合う文化がある」

ツバルのある若者の言葉は、彼自身の決意であるとともに、私たちが進むべき道を示しているのではないでしょうか。

【引用・参考資料】

[1] CNN「More than a third of this country’s population has applied to relocate」
https://www.cnn.com/2025/06/27/australia/tuvalu-relocation-visa-australia-climate-intl-hnk

[2] BBC News「Tuvalu: The disappearing island nation recreating itself in the metaverse」
https://bbc.com/future/article/20241121-tuvalu-the-pacific-islands-creating-a-digital-nation-in-the-metaverse-due-to-climate-change

[3] ロイター「領土沈んでも国として存続を、水没危機のツバルが国際社会にアピール」
https://jp.reuters.com/world/environment/markets/global-markets/SJ73X5VZZFPP5I4U2JH5VYXPS4-2024-09-27/

[4] Wikipedia「日本沈没」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B2%88%E6%B2%A1

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