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「わかっていても戻れない」の心理~ 「戻る力」が未来を切り拓く真の推進力になる ~

Discovery
2025年8月19日

「あ、財布忘れた」

あなたが家を出て少し歩いたところで、お財布を忘れたことに気づいてしまう。そんな経験は誰にでもあることでしょう。そして、目的地に最も早く着く方法が、迷うことなく家に戻ることくらい、あなた自身分かっているはずです。けれども、私たちの心は、まるで悪魔のように囁き始めます。

「今から戻るの、面倒だなぁ」

「スマホがあるから、今日一日は何とかなるし」

「約束の時間に遅れたら困るし」

財布を取りに家に戻る。たったそれだけのことが、まるで今日一日のすべてを台無しにする失敗かのように感じられ、色々な言い訳を考えてそのまま前に進み続けようとしてしまう ― 皆さんもそんな経験をお持ちではないでしょうか。

合理的に考えれば「戻る」ことが最善手だと分かっていても、私たちの心は無意識に「前進」を選びたがります。この、一見すると不合理な人間の行動の裏には、実はとても強力で、これまで見過ごされてきた心理現象の一端を映し出すとともに、深く根差した心理的なメカニズムが隠されています。

今回は、最新の心理学研究が解き明かした「戻ることへの抵抗感」の正体に迫り、その心理が私たちのビジネスやキャリアにどのような影響を与えているのかを考察してみましょう。そして、この無意識のバイアスを乗り越え、より賢明な意思決定を下すためのヒントを探っていきます。

「わかっていても戻れない」の心理 〜 「戻る力」が未来を切り拓く真の推進力になる 〜

「引き返し回避」:科学が突き止めた新たな心理現象

この「戻ることへの抵抗感」という不思議な心理に着目したのが、カリフォルニア大学バークレー校の行動マーケティングを専門とする心理学者、クリスティン・チョー氏らの研究チームです。彼らの研究成果は、2025年5月号の科学雑誌『Psychological Science』[1] に掲載され、私たちの意思決定に潜む新たなバイアスとして注目を集めています。

研究チームは、合計2,524人の成人を対象とした4つの巧みな実験を通じて、人がいかに「戻る」という行為そのものを避ける傾向にあるかを明らかにしました。

例えば、ある実験では、参加者は仮想現実(VR)空間で目標地点を目指します。その途中で、今来た道を引き返せば、より短い近道があることを知らされます。しかし、驚くべきことに、多くの参加者はその合理的な選択をせず、遠回りであっても「前に進み続ける」ルートを選んだのです。

この傾向は、物理的な移動を伴わない課題でも同様に見られました。別の実験では、参加者に「Gで始まる単語を40個書く」という課題を与え、10個終えた時点で「Tで始まる単語を30個作る方が、より簡単で早く終わります」と提案します。ただし、一部の参加者には「Tの課題に切り替える場合、これまで書いた10個は無効になり、ゼロからのやり直しになります」と伝えました。

結果は明白でした。「やり直し」という言葉を伝えられたグループは、たとえ新しい課題の方が効率的だと理解していても、元の課題を続ける傾向が顕著に高かったのです。

さらに、仮想のショッピングモールでの買い物実験では、この心理の非合理性がより浮き彫りになります。参加者は特定の物を探してモール内を移動しますが、途中で買うべき商品が追加されます。その追加商品が、すでに通り過ぎた店舗に確実に存在すると明示されても、多くの参加者は引き返すことを避け、まだ訪れていない、商品があるかどうかも分からない不確実な店舗へと進むことを選んだのです。

これらの実験結果から、研究チームは、この心理傾向が従来の考え方だけでは説明できない新しい現象であると結論付けました。そして、この「たとえ有益であっても、後戻りややり直しを本能的に嫌う心理」を「引き返し回避(doubling-back aversion)」と名付けたのです。

「わかっていても戻れない」の心理 〜 「戻る力」が未来を切り拓く真の推進力になる 〜

なぜ私たちは「戻る」ことをこれほどまでに嫌うのか?

「引き返し回避」は、なぜこれほどまでに私たちの判断を支配するのでしょうか。研究チームは、その根底にある心理メカニズムについて、主に2つの原因を挙げています。

第一の原因は、私たちが持つ「直線的な進捗観」です。私たちは、目標達成までの道のりを、スタートからゴールまでを結ぶ一本の直線として捉えがちです。前に進んだ距離や費やした時間が、そのまま「進捗」であると直感的に感じてしまうのです。この思い込みに囚われると、「戻る」という行為は、これまでに積み上げてきた進捗を否定し、ゼロに戻す「後退」や「無駄な足踏み」に他なりません。たとえその「後退」が、最終的にゴールへの到達を早める賢明な一手であったとしても、私たちの感情はそれを「損失」として処理してしまいます。

第二の原因は、自己の判断を否定することへの恐れです。「戻る」という決断は、暗に「過去の自分の選択が間違っていた」と認める行為に繋がります。これは、私たちの自己効力感、つまり自分の能力や判断への自信を直接的に脅かすものです。自分の間違いを認めることには、恥やプライドの低下といったネガティブな感情が伴うため、無意識のうちに現状のルートを正当化し、そのまま突き進むことを選んでしまうのです。この心理は、過去の投資を惜しむ「サンクコストの誤謬」と似ていますが、たとえコストがほとんどかかっていなくても「戻る」行為自体を嫌う点で、より本能的なバイアスと言えます。

「わかっていても戻れない」の心理 〜 「戻る力」が未来を切り拓く真の推進力になる 〜

ビジネスに潜む「引き返し回避」のリスク

この「引き返し回避」という心理は、私たちの日常生活だけでなく、ビジネスの意思決定のあらゆる場面で、静かに、しかし確実に悪影響を及ぼしています。間違ったアプローチで資料作成を続けてしまい後からの修正に膨大な時間を費やしたり、慣れ親しんだ古い手法に固執して新しい効率的な方法論への切り替えをためらったりする形で現れます。さらには、「この会社に長くいたのだから」と過去の経歴に固執し、より良い転身の機会を逃すといった、キャリアそのものを行き詰まらせる原因にもなり得るのです。

そして、この影響は組織レベルに及ぶとより深刻です。市場ニーズからずれたプロジェクトを「ここまで進めたのだから」と中止できずに大きな損失を生んだり、一度決めた経営戦略を環境の変化に対応させられずに業績を悪化させたりします。最終的には、既存の成功体験が新しい挑戦を阻む壁となり、組織全体のイノベーションを阻害することにも繋がります。研究で触れられている山岳遭難の例は、ビジネスにおいても示唆に富みます。道に迷った時、「引き返せば助かるかもしれない」と分かっていても、「ここまで登ってきたのに」という心理が判断を誤らせ、より危険な状況に自らを追い込んでしまう。これは、市場の変化という山で道に迷った企業が、撤退や方針転換という「引き返し」の決断を下せずに遭難していく姿と重なるのです。

「わかっていても戻れない」の心理 〜 「戻る力」が未来を切り拓く真の推進力になる 〜

「戻る勇気」を力に:引き返し回避を克服するための思考法

では、私たちはこの強力な心理バイアスに、どう立ち向かえば良いのでしょうか。「引き返し回避」を克服し、より合理的な判断を下すためには、意識的な思考のトレーニングが必要です。

まず取り組むべき最初の、そして最も重要なステップは、「自分は今、『引き返し回避』に陥っているのではないか?」と自問することです。何か大きな決断を迫られた時に一度立ち止まり、自分の感情が合理的な分析に基づいているか、単なる本能的な抵抗感なのかを客観的に観察するだけで、不合理な判断に流されるリスクは大きく減らせます。

次に有効なのが、「戻る」という言葉の持つネガティブなイメージをポジティブなものに書き換えることです。「後退」ではなく「賢明な軌道修正」、「無駄足」ではなく「最短ルートを発見するための探索」と捉え直すのです。進捗とは物理的な前進ではなく、「最終的なゴールにどれだけ近づいたか」で測るべきだと考えれば、「戻る」ことはゴールへの確実な一歩となります。

こうした内省に加え、私たちを過去のしがらみから解放する未来志向の視点も重要です。「もし、今日このプロジェクトをゼロから始めるとしたら、自分は今のやり方を選ぶだろうか?」と自問することで、判断の軸を「今、未来のために最善なのは何か」という純粋な問いに集中させることができます。答えが「ノー」であれば、今すぐやり方を変えるべき時なのです。

そして最後に、こうした個人の意識改革だけでなく、組織全体としてこの問題に取り組むことが不可欠です。心理的安全性の高い、つまり失敗を恐れずに報告でき、挑戦が奨励される風土を醸成することが求められます。方針転換や撤退を「失敗」と非難せず、むしろ被害を最小限に食い止めた「ファインプレー」として評価する。部下からの「やり直し」の提案を前向きに検討し、サポートする。こうした文化を築くことで、組織は変化に強く、しなやかな生命力を手に入れることができるでしょう。

私たちは、前に進むこと、成長することに価値を見出します。それは人間として、そして組織として当然の欲求です。しかし、本当の成長とは、必ずしも一直線に進むことだけを意味しません。

時には立ち止まり、状況を冷静に分析し、必要であれば大胆に引き返す。その勇気ある決断こそが、硬直化した状況を打破し、私たちをより早く、より確かに、望むべき未来へと導いてくれるのです。

「戻る」ことは、敗北でも、無駄でもありません。それは、より高くジャンプするために一度深くかがむような、未来への投資であり、賢明な戦略です。

今、あなたの目の前にある「戻る」という選択肢。それは、あなたの成長を妨げる障害ではなく、未来への扉を開く、最短の近道なのかもしれません。その扉を開けるかどうかは、あなたの「戻る勇気」にかかっています。

【参考資料】

[1] Psychological Science - May 2025「Doubling-Back Aversion: A Reluctance to Make Progress by Undoing It」
https://journals.sagepub.com/doi/10.1177/09567976251331053

[2] The latest psychology and neuroscience discoveries.「Scientists reveal a widespread but previously unidentified psychological phenomenon」
https://www.psypost.org/scientists-reveal-a-widespread-but-previously-unidentified-psychological-phenomenon/

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