社会の急速なデジタル化によって、僅か十数年で私たちの日常は、根底から大きく変わりました。朝はスマートフォンの通知で目覚め、移動中はSNSのタイムラインを追い、仕事ではキーボードを叩いて言葉を紡ぎます。かつて知性の形成に不可欠とされた「本を読む」「手で書く」という行為は、今や意識しなければ日常から消え去ってしまう、希少な行為となりつつあります。
この劇的な変化は、利便性という恩恵の裏側で、人間の根源的な能力である「思考する力」を静かに、しかし深刻に蝕んでいるのではないでしょうか。複雑な事象を多角的に捉え、本質を見抜く力。自らの内なる声を言葉として論理的に紡ぎ出す力。私たちは効率性を追求するあまり、そうした「思考の体力」とも言うべき能力を、知らず知らずのうちに衰えさせているのかもしれません。
この漠然とした不安に対し、一般社団法人 応用脳科学コンソーシアム(CAN)と東京大学大学院 酒井邦嘉教授(言語脳科学)の研究室らによる共同調査が、科学的な警鐘を鳴らしました。本稿では、この調査結果を深く読み解き、現代に蔓延する「本離れ」「メモ離れ」が思考力に与える影響を考察します。そして、失われゆく「読む・書く」文化の再興が、複雑化する社会問題の解決にいかに重要な鍵となり得るのかを考察していきたいと思います。
調査は全国の18歳から29歳の学生1,062名を対象に行われました。高等教育を受け、知的好奇心が最も旺盛なはずの層から見えてきたのは、想像以上に深刻な実態でした。
まず、「書く」という行為の衰退です。大学の講義内容を一切記録しない学生が10%に上ります。これは単なる学習意欲の問題ではないでしょう。情報を取捨選択し、自分なりに再構築して記憶に刻むという、能動的な学習プロセスそのものの放棄を意味します。さらに衝撃的なのは、日常の予定管理です。媒体を問わず、予定を一切「記入」しない学生が24%、実に4人に1人に達しました。未来を計画し、情報を構造化し、自らを律するという思考の基礎訓練が、日常から失われているのです。
次に、「読む」という行為の実態も深刻です。体系化された知識の宝庫である本や新聞・雑誌を、普段全く読まないと回答した学生は20%に達します。5人に1人が、腰を据えて活字文化の恩恵に浴する習慣を持っていません。
もちろん、彼らが活字に触れていないわけではありません。SNSやブログの閲覧には1日平均60分を費やしています。しかし、アルゴリズムに受動的に供給される断片的な情報と、自らの意思で選び取り、文脈を追って能動的に読み進める体系的な読書とでは、脳に与える刺激の質が決定的に違います。前者は瞬間的な反応を促しますが、後者は持続的な集中力と論理的思考力を要求します。
紙媒体の読書時間は、読む習慣のある学生でさえ1日平均40分。調査対象全体でならせば、わずか30分です。学問の基礎である専門書を日常的に読む学生は38%と半数にも満たない状況です。この数字は、高等教育の現場ですら、深い学識の涵養に必要な時間が確保されていない現実を突きつけています。
これらの結果は、デジタル化の影の部分を克明に描き出します。知識へのアクセスはかつてなく容易になりました。しかし、その知識を血肉化するための根源的な営みである「読む・書く」が、若者の日常から急速に失われつつあるのです。
この調査が明らかにした最も重要な知見は、「読むこと」と「書くこと」の間に存在する、極めて強い相関関係とその「累積効果」です。両者は独立した行為ではなく、相互に作用し合うことで知性を螺旋状に高めていく、分かちがたい関係にあります。
調査結果は明確です。「日常的に本や新聞・雑誌を読む人ほど、多様な場面で書く傾向にある」。そして、その逆もまた真なりです。「多様な場面で書く人ほど、本や新聞・雑誌を長時間読む傾向にある」。この二つの行為は、互いを刺激し、高め合う車の両輪なのです。
この相関のメカニズムは、言語脳科学の知見が解き明かしてくれます。「脳にある言語野において入力の情報が構造化されて出力される」。つまり、読むこと(入力)で得た情報は、脳内で既存の知識と結びつけられ、論理的に再構築(構造化)された上で、書くこと(出力)へと繋がります。
良質な読書体験は、論理構造や豊かな語彙を脳にインプットし、思考の「知的資本」を蓄積します。一方、日常的に書く訓練は、漠然とした思考に輪郭を与え、言語化する能力を鍛えます。この言語化能力が高まると、今度は読む際に文章の構造や筆者の意図をより深く読み解けるようになるのです。
この「読む⇄書く」の好循環こそが、「累積効果」の正体であり、真の読解力や論理的思考力を育む源泉です。事実、この好循環を持つ学生は、国語の読解問題の成績が有意に高いことが証明されています。
現代社会において、この読解力の意味は大変大きいものです。それは単なるテストのスキルではありません。文章の背後にある意図やバイアスを読み解き、批判的に吟味する能力です。フェイクニュースやプロパガンダが氾濫する情報社会において、主体的に判断を下すための必須のリテラシーと言えるでしょう。
「メモ離れ」「本離れ」は、この知的成長のエンジンを停止させ、累積効果がもたらすはずの成長機会を根こそぎ奪います。その結果生じる思考力の低下は、個人の問題にとどまらず、社会全体の知的基盤を脆弱にする「静かなる危機」なのです。
この危機を前に、「最近の若者は」と嘆くだけでは何も解決しません。これは特定の世代の問題ではなく、デジタル化という抗い難い変化の中で社会全体が直面する構造的な課題です。だからこそ、その克服、すなわち「読む・書く」文化の回復は、現代が抱える多くの問題を解決する計り知れない可能性を秘めています。
第一に、健全な民主主義の基盤を強化します。
複雑化する現代の政策課題を理解し、是非を判断するには、長文の資料を読み解き、多角的な視点を比較検討する思考力が不可欠です。思考力の低下は、人々を情緒的なスローガンや単純な二元論に傾倒させ、ポピュリズムの温床となりかねません。「読む・書く」文化は、複雑な現実から目を背けず、粘り強く思考し、建設的な対話に参加できる成熟した市民を育みます。
第二に、持続的なイノベーションの源泉となります。
真のイノベーションは、情報の切り貼りからは生まれません。先人たちが築いた知識の体系を深く学び(読み)、自らの試行錯誤を記録し(書き)、思考を重ねる中でこそ、新たなアイデアの芽は育まれます。体系的な読書と筆記という地道なプロセスこそが、表層的な知識を超えた、深い洞察に基づく創造性の揺りかごとなるのです。
第三に、社会の分断を乗り越え、共感と対話の文化を醸成します。
SNSの短絡的なコミュニケーションは、しばしば感情的な対立を増幅させます。一方で、一冊の本をじっくり読む体験は、自分と異なる人生や価値観に触れ、他者の視点を想像する力、すなわち共感力を育みます。また、自らの考えを丁寧に文章に綴る行為は、内省を促し、相手への配慮あるコミュニケーションへと導きます。「読む・書く」ことは、性急な断罪ではなく、相手の文脈を理解しようと努める、寛容で思慮深い対話の文化を取り戻す力を持っています。
では、私たちは何をすべきでしょうか。デジタルデバイスの完全な排除は非現実的です。重要なのは、デジタルとアナログの利点を理解し、両者を賢く使い分けるハイブリッドな知性のあり方を社会全体で模索することです。
教育現場では、タイピングスキルと並行して、思考を深化させるノート術や手書きの価値を再評価すべきでしょう。一冊の本を深く読み解き、議論し、レポートを書き上げるという、質の高い読書・執筆体験をカリキュラムの中核に据えることが求められます。
社会人もまた、この課題と無縁ではありません。効率化の名の下に要約ばかりに頼らず、時には腰を据えて資料を読み込み、自らの手で報告書を構成してみる。休日にはスマートフォンを置き、一冊の本を手に取る。そうした小さな習慣の積み重ねが、「読む⇄書く」の好循環を再び回し始めます。
今回の調査は、私たちに重い問いを突きつけています。利便性と引き換えに、私たちは人間を人間たらしめる根源的な営みを軽んじてはいないのではないでしょうか。
「読むこと」は、先人の知恵と対話し、思考の地図を広げる旅です。「書くこと」は、混沌とした内なる思考に秩序を与え、世界に新たな意味を紡ぎ出す創造の行為です。この文化の衰退は、社会全体の知的体力の低下に直結します。
しかし、危機を認識することは希望への第一歩です。失われゆく文化の価値を再発見し、その回復へ意識的に努力するならば、未来は決して暗いものではありません。AIが人間の能力の一部を代替する時代において、「読む・書く」を通じて培われる深い思考力、的確な表現力、他者への想像力こそが、人間が尊厳を保ち、より豊かに生きていくための最も確かな羅針盤となるでしょう。
今こそ、私たちはもう一度、書を手に取り、ペンを握るべき時なのです。その静かで知的な営みの先に、個人と社会の、より良い未来が拓けていると信じてやみません。
[1] 【研究成果】デジタル時代の学生に対し読み書きの実態を調査 ~「書く」ことと「読む」ことの累積効果が明らかに~
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20250901140000.html
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