今回は、あえて少し「古臭い」言葉についてお話ししたいと思います。それは「お互い様(おたがいさま)」です。
昭和のドラマや、近所のお節介なおじいちゃんおばあちゃんが使っていたようなこの言葉。正直なところ、今の私たちの日常会話では、ほとんど耳にしなくなりました。ビジネスチャットで「それはお互い様ですね」なんて送ろうものなら、なんだか馴れ合いのようで、プロフェッショナルではないと感じる人も多いでしょう。まさに「死語」です。
しかし、この言葉が消えつつある現状を深掘りしていくと、私たちが今直面している「生きづらさ」の正体や、SNSでの炎上、さらには世界中で起きている分断や対立の根本原因が見えてきます。
なぜ私たちは、こんなにも他人のミスに厳しく、自分の失敗に怯えなければならないのでしょうか?
本稿では、「なぜ “お互い様” という言葉は死語になったのか?」について、言語学の視点から社会構造の変化を紐解きながら、原因と現状、そしてそこに潜む問題について考え、デジタルネイティブ世界をより良いものに変えていくために私たちができることはなにかを考えてみたいと思います。
まず、そもそも「お互い様」とはどんな言葉だったのかについて、少し学術的な事実に基づいて振り返ってみましょう。単なる「譲り合い」の精神論だと思っていると、この言葉の本質を見誤ってしまいますから。
語源を辿ると、「互い(たがい)」は動詞の「違う(たがう)」と同源です。もともとは「交差する」「食い違う」という意味を持っていました。そこから転じて、「かわるがわる」「双方」という意味になりました。
そして面白いのが「様(さま)」です。通常は「神様」「お客様」のように人への敬称として使われますが、ここでは「状態・ありさま」を指しています。「ご苦労様」「お疲れ様」と同じ構造ですね。つまり「お互い様」とは、「私たち双方が、食い違ったり交差したりする、そういう状態そのもの」を指し、さらにそこに「敬意」や「受容」のニュアンスを込めた言葉なのです。
言語学の世界には「語用論」という考え方があります。文字通りの意味だけでなく、文脈や話し手の意図をくみ取って「実際の言葉の意味」を理解しようとするアプローチです。この観点に立って分析すると、「お互い様」という言葉はかつての日本社会において、驚くほど高度な社会的機能を果たしていました。
つまり、「お互い様」とは、人間関係というバグだらけのシステムを、致命的なエラー(関係の破綻)から救うための「リセットボタン」だったのです。しかし、現代の私たちは、この便利なボタンを捨て去ろうとしています。なぜでしょうか?
「お互い様」が機能しなくなった背景には、私たちが手にしたテクノロジーと、それが作り出した「空気」が大きく関係しています。
かつて、言葉は消えていくものでした。だからこそ、「その場の空気」で許し合い、水に流すことができました。しかし、デジタル社会はすべてを記録します。
若気の至りや、ふとした失言、一度の失敗。これらはSNSという巨大なデータベースに「ログ」として刻まれ、検索可能になります。10年前のツイートが掘り返され、今の社会的地位を奪われる「キャンセルカルチャー」はその典型ですし、「黒歴史」という言葉は今やメディアでも広く使われています。
デジタル空間は、全方位から監視される「パノプティコン(一望監視社会=高い監視塔から行動をすべて監視されている監獄のような社会)」です。そこでは、文脈を無視した切り抜き画像が拡散され、見知らぬ他者からの裁判が始まります。
「あいつも人間だから」というアナログな許しは、デジタルの冷徹な記録の前では通用しません。「証拠」が残っている以上、徹底的に糾弾するのが「正義」とされるのです。
その結果、現代社会は「不寛容(ゼロ・トレランス)」な空間に変貌しました。
コンビニの店員のちょっとした手際、宅配便の遅延、同僚のメールの誤字。かつてなら「まあ、お互い様だし」で済まされたノイズが、今では「★1つの低評価」や「クレーム」として可視化されます。
私たちは、他者に対して「完璧なアルゴリズム」のように振る舞うことを求め、自分自身もまた、バグを出さないように必死で取り繕っています。「お互い様」と言うためには、まず自分の弱さを認めなければなりませんが、弱さを見せることは、この監視社会において「死」を意味しかねないのです。
特にZ世代やミレニアル世代の皆さんの中には、「お互い様なんて、ただの『甘え』や『搾取』の口実じゃないか」と感じる人もいるでしょう。その感覚は、ある意味で非常に合理的です。
その結果、現代社会は「不寛容(ゼロ・トレランス)」な空間に変貌しました。
デジタルネイティブにとって、人間関係はしばしば「コスト」として計算されます。
「お互い様」を成立させるには、相手と長く付き合うという前提が必要です。「今日は私が損をしたけれど、来月はあなたが助けてくれる」という信頼関係があって初めて、今の損を許容できるからです。
しかし、現代の人間関係は流動的です。転職は当たり前、マッチングアプリで出会った相手とはワンタップで縁が切れる。そんな「一時的な関係」において、相手のミスを被ることは、単なる「損」でしかありません。
嫌な相手は「ブロック」「ミュート」し、必要なケアは金銭(サービス)で解決する。この「摩擦のない」関係性こそが、タイムパフォーマンス(タイパ)に優れた生き方だとされています。
さらに、現代の若者を縛り付けているのが、強烈な「公正世界仮説」と「自己責任論」です。
「公正世界仮説」という意外な程堅苦しい言葉は、近年SNSに登場したパワーワードです。この言葉には、「努力すれば報われる」という能力主義の裏返しとして、「失敗したのは努力や準備が足りなかったからだ」という意識が内面化されています。
あるいは逆に、生まれた環境ですべてが決まるという「親ガチャ」的な宿命論もまた、他者への無関心を助長します。「自分の人生は自分で背負うしか他ないのだから、他人の人生まで背負わされたくない」という防衛本能です。
真面目にルールを守り、必死にスキルアップして生きている人にとって、「お互い様だから許してよ」と近づいてくるフリーライダー(タダ乗りする人)は、自分の努力を嘲笑う敵に見えるかもしれません。
「正しくない者が得をするのは許せない」。この異常なまでの「公正さ」への渇望が、皮肉にも、私たちを孤独な戦いへと追い込んでいるのです。
視点を少し広げて、世界全体を見てみましょう。「お互い様」が消えた空白地帯に台頭してきたのが、排他的なポピュリズムです。
ポピュリズムの本質は、社会を単純な二項対立に分けることです。「善良な私たち」対「腐敗したエリート」、「純粋な国民」対「異質な移民」。
そこにあるのは、「私たちは同じ人間である」という共感ではなく、「彼らは排除すべき敵である」という憎悪です。「敵」に対して「お互い様」の論理は発動しません。相手の失敗は攻撃のチャンスであり、自分たちの失敗は陰謀によって隠蔽されるべきものとなります。
SNSのアルゴリズムは、私たちが「見たいもの」だけを見せ、「信じたい正義」だけを増幅させます(フィルターバブル)。
その結果、私たちは「複雑な現実」に耐えられなくなりました。「あの人にも事情がある」「立場は違うけれど、共通の悩みがあるかもしれない」といった想像力は、「どっちの味方なんだ!」という単純な怒りにかき消されてしまいます。
「お互い様」という言葉が持っていた、「白黒つけずに、共存の道を探る」という知恵は、この極性化した世界では「弱腰」や「日和見」として切り捨てられてしまったのです。
ここまで、「お互い様」が死語になった理由を、少し絶望的なトーンで語ってきました。
しかし、私はここで「昔はよかった、昭和に戻ろう」と言いたいわけではありません。不可逆なデジタル社会において、古いムラ社会的な「お互い様」をそのまま復活させることは不可能ですし、そうすべきでもありません。
私たちに必要なのは、この概念を現代版にアップデートすること。「デジタルネイティブなオタガイサマ 」への進化ではないでしょうか。
AIやロボットが台頭する時代、人間だけに残された最後の特権とは何でしょうか?
それは「知性」でも「計算能力」でもなく、「弱さ」です。病気になり、老い、間違いを犯し、感情に振り回される。この「バグだらけの仕様」こそが、私たち人間の共通項です。どんなに富裕層でも、どんなにフォロワーが多くても、私たちは等しく傷つきやすい存在です。この「脆弱性の共有」こそが、分断された世界をつなぐ唯一のプロトコルになり得ます。
しかし、現状ではこの「脆弱性の共有」がうまくできていません。その原因として、経済や技術のあまりに急速な進歩に多くの人々がついていくことができず、その結果として「勝ち組」と「負け組」という深刻な社会分断が生まれていることが挙げられます。このような過酷な環境下で、人々はますます自身の弱さを見せることを怖れるようになり、結果として脆弱性の共有がさらに困難になっているのが実情です。この分断された世界を修復するためには、こうした恐怖を克服し、次に述べる生存戦略を選択することこそが唯一の方法といえるでしょう。
そのために私たちには社会全体で取り組むべき宿題があるのではないでしょうか。
これらの取り組みを進めていくことで、多くの人々が「私は完全ではない。だから、あなたの不完全さを許容する」という想いを共有できるようになるはずです。そしてその宣言は、敗北ではなく、孤立を防ぐための最も合理的な生存戦略なのです。
これからの時代に必要な知性は、即座に正解を出す力や、相手を論破する力ではありません。
詩人ジョン・キーツが提唱した「ネガティブ・ケイパビリティ(負を耐える能力)」、すなわち「どうにもならない事態や、理解できない他者を目の前にしても、性急に解決や結論を求めず、その不確かさの中に留まり続ける力」です。
SNSで誰かを叩きたくなった時、職場で誰かのミスにイラついた時、一瞬だけ判断を保留し、「その背景には、私の知らない物語があるのかもしれない」と想像する余白を持つこと。それが現代における「お互い様」の実践です。
ビジネスやサービスはドライな「契約」でいいでしょう。しかし、社会の根底には「盟約」が必要です。
見返りを求めない小さな贈与、損得勘定抜きのケア。これらを「無駄なコスト」として切り捨てるのではなく、「社会のセーフティネットを編み直す作業」として捉え直すのです。
あなたが今日、誰かの理不尽なミスを「お互い様だよ」と笑って許すことは、巡り巡って、将来あなたがミスをした時に、誰かから許されるための「徳の貯金」になります。
「お互い様」という言葉は、確かに死語になりつつあるかもしれません。
しかし、世界が分断と格差に引き裂かれ、デジタルな監視に息が詰まりそうになっている今こそ、この言葉が秘めていた「不完全な者同士が、肩を寄せ合って生きるための知恵」は、かつてないほど輝きを放っています。
完璧な人間になんて、ならなくていい。
正しさで殴り合うよりも、弱さで繋がり合う世界の方が、きっと少しだけ居心地がいいはずです。
次に誰かが失敗した時、あるいは自分自身が情けない失敗をした時、心の中で、あるいは小さな声でつぶやいてみませんか。
「まあ、人間だもの。お互い様、だよね」
その一言から、私たちの社会はもう少しだけ、優しくなれるかもしれません。
[1] Nature Communications「Humans are more prosocial in poor foraging environments」
https://www.nature.com/articles/s41467-025-66880-9
[2] 朝日新聞 GLOBE+(2020年2月)「【ロバート キャンベル】「迷惑」と「お互いさま」、かくもグレーな境界」
https://globe.asahi.com/article/13172678
[3] 浄土真宗 本願寺派「ことばはこころ」
https://www.hongwanji.or.jp/mioshie/story/000619.html
[3] 他力本願.net(浄土真宗本願寺派(西本願寺))「お互いさまの関係性が生みだすものー龍谷大学実践真宗学研究科の木本さんにインタビュー」
https://tarikihongwan.net/category1/nayami/11351.html/
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